私のひいばあちゃん、ばあちゃん
私は、町立の小学校に通っていた。
難聴の学校に行くという選択もあったが、普通の学校に行くことにした。
私の母親と言語学校の先生は、町の教育委員会に掛け合って、集団で活動する体育や図工など授業以外に関しては、マンツーマンで授業を受けることができるようにした。
小学生の時の一番の思い出は、いじめ。
低学年の時は、障がい者だから優しくしてあげよう、親切にしてあげようというクラスメイトが多かった。
しかし、高学年になると障がい者だからといって理不尽な理由でいじめをしてきた。
クラスメイト全員に。
そんな私に心強い味方がいた。
ひいばあちゃんとばあちゃんとじいちゃん。
母親は味方というより親だった。
味方というのは、僕を甘やかしてくれた人。
ひいばあちゃんは、老人ホームのデイケアから帰ってくると水戸黄門を見ながら、ぼたもちを食べたりして学校で習ったことを話していた。
ひいばあちゃんは、戦争で旦那様を亡くしてから子供を育ててきた。
じいちゃんがひいばあちゃんの子。
じいちゃんは、建築士と大工さん。ばあちゃんは、工場で働いていた。
じいちゃんとばあちゃんの子供は3人。
たす子おばちゃん、お母さん、まゆみおばちゃん。
ひいばあちゃんは、仕事に出ているばあちゃんとじいちゃんの代わりに3人の面倒を見ていた。
ひいばあちゃんは、草履を作ったりしてリヤカーを引いて工房に持って行ってチビチビとお金を稼いで3人の面倒を見ていた。
そんなことを、ひいばあちゃんがなくなって数日後、母の口から聞いた。
胸がジーンとなった。
ひいばあちゃんは、学校に行けなかったから算数や国語のことなんて分からないのに黙って僕の話を聞いてくれた。
こうやってブログを書き綴っているとひいばあちゃんのことを思い出して涙が出てしまいそう。
ちょうど1週間前、ばあちゃんが緊急入院した。
肺炎だった。
夕方、恋人とカフェで談話をしていると、LINEに連絡が入った。
父親の名前が出ていたため、また就活をしているかどうかのメッセージかと思い、無視をしていた。
でも、何通もメッセージがくるから、ただ事じゃないとLINEを開いた。
私は、どきっとした。
「ばあちゃん緊急入院」
「危篤」
「連絡をしてください」
「今日の夜が峠」
「最後の連絡しますか」
これを目にして、私は心臓がバクバクしてどうしようどうしよう。と思った。
私は急いで電話をかけた。
姉が出た。
涙声で「まさひろ。聞いた?」
「聞いたよ。今どうなっとん」
「ばあちゃんが。死ぬって。今ね、お父さんがお母さんと爺ちゃんで先生の話聞いてるんよ」
「ばあちゃん今何してるの?」
「酸素マスク付けて寝てる」
「先生の話が終わったら、どうなったのか教えて。原因とか」
「わかった。LINEするね。」
数時間後、父からLINE
「肺炎」
「肺に水が溜まった」
「今夜が山」
「何かあったら連絡する」
私は、返した。
「手術しないの」
「穴開けて水ぬかんの」
「どうなっとん」
「手術できない」
「酸素マスク付けて、点滴」
「何あったら連絡する」
私は、モヤモヤして寝た。
結果、おばあちゃんは肺炎を治し、退院。
おばあちゃんらしい出来事が入院中あったそう。
集中治療室から一般病棟へ移った夜。
いびきと寝言がうるさくて、個室に移されたそう。
ばあちゃんと一緒に寝たことがある僕はあるある体験でした。
爺ちゃん、心配しただろうなぁ。
人との別れはいきなり。
だから、私は私らしく人生を過ごしたいなと。
無職だけど、やりたいことをやっていくために努力をしていきたい。